幼児教室PAL パル・クリエイション

   
パル便り

パル便り「2011年度 4月号(チャイルド)」

 震災からおよそ1ヶ月が経とうとしています。未だ余震が続いていますが、それにも段々慣れっこになってきました。もうあんな揺れは来ないだろうと、どこかで高を括っている自分を感じます。のど元過ぎれば、の現象なのでしょうか。只、そんなことは言っていられない心配もまだ続いています。原発事故がいつまで経っても終息せず、健康被害についてどのように理解すればいいのだろう、という不安。地震の被害が大き過ぎて国全体に負荷がかかり、経済の立ち直りのメドもはっきりしない状態。そうしたことが各個人の自力ではなんとも出来ず、じっと辛抱する他無く、自覚は無くともそうした我慢が多くの人に取ってかなりのストレスになっています。
 ただこうして頭の上を災いが過ぎていくのを、じっと身を縮めて待つのが一番の方法なのでしょうか。そうではないでしょう。知識人たちは口々に
「日本はこれをきっかけに何かが変わるだろう。変わらなければならない。」
と言います。何を変えなければならないと言うのでしょう。
 電気を失ったことで、如何に全ての生活を電気に頼っていたかが解りました。私達はこうなることを予測出来ず、もっと便利に、更に便利にと、快適な生活を追い求めてきました。しかし無尽蔵な欲望を支える為に,裏では無理に無理が積み重なっていたことを知りました。
 どうも変だなと思いながら、政争ばかりをくり返す政治家達の処遇に手をこまねいていた私達有権者は、今回の事故処理への政府の対応の拙さに唖然としながら、自らに反省を強いねばなりません。
 煎じ詰めれば、豊かさの上にあぐらをかいて我欲にばかり走ってはいけないということを悟る、ということでしょうか。企業がテレビCMを自粛した穴埋めにAC・JAPANの公共広告がくり返し流されていますが、「心は見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど、思いやりは見る事ができる。」というフレーズは、そのような心がけを日本人全体に刷り込むために流しているものなのでは、と思うのはうがった考えでしょうか。
 人間が右往左往していても、桜はいつものように静かに花を開き、自然の営みを続けています。そんな自然を壊そうとするのも又人間だという事実に、桜を見ながら胸がつぶれそうな想いに襲われます。人も実は自然の内に位置していたはず。特に子どもの成長は、自然の営みに他なりません。子どもの成長をどのように促すか、今がそれを考える時、チャンスの時です。子ども達はいずれ次の世代を担うことになるでしょう。迅速な決断のできる、強くて聡明なリーダーを育てなくてはいけません。ただ高学歴だとか、地盤を引き継いだとか、そんな条件ではなく、人の気持を汲み取ることのできる、おおらかで優しい性格を持つ、そして更に聡明な人がリーダーの条件です。そんな大人にする為には、どのようにして育てていくか、今それを考える時です。